日本福祉文化学会

第14回日本福祉文化学会埼玉大会報告


いのちの重みと喜び〜共に生きるための豊かな福祉文化創造を〜
2003年11月29日(土)、30日(日) 場所:立教大学武蔵野新座キャンパス(埼玉県)

 2003年11月29日(土)、30日(日)、立教大学武蔵野新座キャンパス(埼玉県)において、「いのちの重みと喜び〜共に生きるための豊かな福祉文化創造を〜」をテーマに、第14回日本福祉文化学会埼玉大会・第1回日本福祉文化学会関東ブロック大会が開催されました。新しい福祉の流れの中で、今日まで積み上げられてきた福祉の中で忘れられてきた「負の遺産」に思いを馳せながら、どうしたら豊かな福祉文化を築いていけるのか、議論を深めました。  


報告 前嶋 元

 大会初日、基調講演では平沢氏が自身のハンセン病者として生きてきた体験を中心に、非常に重く深く心に響くお話をしてくださいました。午後の鼎談では、在日問題研究者の金永子氏の提言に沿っ ト、金奉玉氏は在日朝鮮人ハンセン病患者としての苦悩を、一番ヶ瀬氏は福祉学の問題点を語ってくださいました。

【1日目】

基調講演:「命の重みと喜び」 平沢 保治(多磨全生園)

 1996年までは「らい予防法」により、病人でありながら病人として、人として認められなかった。一昨年、熊本において裁判に勝訴し、ようやく人間になった。しかし人間になったからにはどうやって生きるか大きな課題がある。「笑顔と将来に向けての思いは明日へつながる」との思いで、人権教育活動を続けてきた。しかし私も差別を受けながら人を差別してしまう人間である。朝日茂さん達との運動で、結核の患者さんに飴をむいてもらい「結核にでもかかったら」とためらった。らい予防法廃止で法律上の差別はなくなった。しかし、まだ現実にはハンセン病の差別は残されている。熊本県の温泉宿泊拒否。この現実をどう受け止めるか。  
 長くハンセン病は天刑病、業病、血統病と差別が続いてきた。1873年らい菌が発見された。これで、正しい理解が進むはずが、それまでの考えは依然として続き、らい菌はきわめて感染力が低い菌であるにも関わらず法定伝染病と同じ位置付けになってしまった。
 最初にハンセン病対策を講じてくれたのは外国のキリスト教の人であった。戦争中、国賊といわれながらも、暖かい手を差し伸べてくれた。私立5ヵ所のうち、隔離は若干あっても人権を奪う事はなかった。日本が世界的な非難を受けながらも作ったものが「らい予防法」につながる「らい予防ニ関スル件」である。
 全国5ヵ所に国立療養所が作られたが、そこには人権など全くなかった。療養所の生活は、国の政策になってからおかしくなった。刑務所のような場所。所長が元警察官。所長に逆らう事は許されず、強制労働を強いられた。断種され、堕胎され、子を持つことを絶たれた。しかし、このひどい生活は外部には「よいもの」として伝えられていた。
 1937年の「らい予防法」改正で、日本を浄化する名のもと、隔離収容が進んだ。牛馬を置くところに貨車や客車を置いて、患者を連れて行った。家は真っ白になるほど消毒された。療養所は人であふれる。食糧難になり、患者の不満は膨れ上がっていった。これを受け、治安対策として、草津に監房よりひどい場所を作り、逆らう者は、そこに連れて行かれ、処罰された。92件投獄されたが、書類がしっかりしていたものは1件のみであった。
 私の父はハンセン病だった。母は肉親から非難を受け、差別され、死ぬまで生家の敷居をまたがせてもらえなかった。それでも父を支え続けた。私は13歳のとき発病した。「1年で帰れる」と東京大学の先生に言われ、その言葉を信じ、東村山に行った。そこでは「名前をどうするか」と聞かれ、裸にされて風呂に入れられ、お金を取られ、ベットに寝かせられた。宗教にも勧誘された。これは、死んでお葬式をするとき困るからとの理由であった。現在、死んでも帰れない3951人が園内の納骨堂にいる。
 園内の強制労働で私の病気は悪化した。そんな中、敗戦を迎え、皇民教育を受けてきた私はそれが信じられなかった。ヤケになって酒を飲んではけんかをしていた。そんな時に、ハンセン病の特効薬として「プロミン」という薬が開発された。らい菌は試験管の中でさえ培養ができず、薬の量を調整するのが難しい。私は薬を飲みすぎて後遺症を残してしまった。
 療養所から治った人を出そうとする動きが出てきた。母や父と崇める園長先生や職員が国会に召集された。しかし、「らい菌は治ったとしても解剖すればどこかにいる」「患者だけでなく、その家族にもその可能性がある」と発言した。先生や職員はらい菌を見る事はできたが、らい菌で苦しんでいる人間を見る事はできなかった。海外から非難を受け、経過措置という形で外に出られるようになった。しかし出てみて困った。園の周辺の店では「全生園の方お断り」という張り紙をされた。これではいけないと思い、「看護切り替え」「生活権の問題」解決に向け、立ち上がった。朝日茂さんの闘いが私の励みになった。しかし無理がたたり大病を患い、後遺症を残してしまった。私は自殺を図り、妻や友人に助けられた。なぜ、手が利かなければ足で、足が利かなければ口でと考えられなかったのか……。多くの人の支えによって私は立ち直った。そして今までこうして活動を続けてこられた。
 私は生まれ故郷があっても帰れない。知識と財産は努力で何とかなる。しかし血統は一生続く。苦しかったからこそ命ということ、生きるということを誰よりも尊く、美しく思っている。園に50年間通い続けてくれた母。父、母からもらった命。この命でハンセンの問題に立ち向かってこられた。喜びを感じる事が出来た。「苦しみは喜びを作る」。そう私は思っている。

結純子ひとり芝居「地面の底がぬけたんです」
あるハンセン病患者の生涯を題材にした結純子さんの一人芝居


鼎談 「在日朝鮮人ハンセン病患者として生きて」
鼎談者 一番ヶ瀬康子  金奉玉  金永子

二重の差別に置かれた在日朝鮮人ハンセン病患者の方の生の声を聞く。


「福祉文化とは何か再考」研究報告討論会
司会:河畠修(浦和大学・日本福祉文化学会副会長)
報告者:馬場清(浦和大学・日本福祉文化学会事務局長)
シンポジスト:
薗田碩哉(実践女子短期大学・日本福祉文化学会副会長)
市川禮子(社会福祉法人尼崎老人福祉会理事長・ 日本福祉文化学会理事)
渡邊豊(新潟県社会福祉協議会・日本福祉文化学会理事)

これは6回にわたる研究会の結果をリポートする馬場事務局長の報告から始まった。シンポジスト3人による意見発表が行われ、「福祉文化の現在」がいろいろな角度から深められた。


【2日目】

午前:自由研究発表

午後:ワークショップ
1「身体が言葉を越えてつながるとき」
2「日本の伝統文化をとりいれて、生活の彩りを」
3「遊びと福祉文化」
4「回想法」
5「アクティビティサービスに 役立つ手作り遊び」
6「ヴォイストレーナーによる 高齢者施設での音楽セッション法」



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